スポーツマニアによる
スパイクシューズ講座

スパイク!スパイク!

プーマ

プーマ

プーマの創業者、ルドルフ・ダスラーは、adidasの創業者、アドルフ・ダスラーの兄です。これはトレビアの泉などで紹介され、有名なお話です。二人はドイツで「ダスラー兄弟商会」を設立し、スポーツ選手にあった靴提供することによって多くのアスリートに金メダルをもたらしていました。ここではアディダスの創業者、アドルフ・ダスラーの兄が作った会社であるプーマについてまとめてみました。

プーマ創業者:ルドルフ・ダスラー

プーマ創業者:ルドルフ・ダスラーについてまとめました。

ルドルフ・ダスラーの生い立ち

プーマの創設者ルドルフ・ダスラーは、ヘルツォーゲンアウラハで製職人として働く父クリストフと、小さな洗濯屋を営む母パウリーナの次男として生まれました。1924年、ルドルフは弟アドルフ(愛称:アディ)・ダスラーが設立した製靴工場に参加するためヘルツォーゲンアウラハに帰りました。彼らは新しい事業を行うにあたってダスラー兄弟製靴工場(Gebruder Dassler Schuhfabrik)という名前を付けました。兄弟は彼らの母が使っていた洗濯室でこのベンチャーを開始しました。アディはスーツケース一杯のスパイクを携えて1936年夏季オリンピックが開催されるベルリンに向かい、アメリカ合衆国の短距離走者ジェシー・オーエンスを口説いたのです。オーエンスはこの大会で4つの金メダルを獲得しました。事業は波に乗り、ダスラー兄弟は第二次世界大戦前に年間20万足の靴を販売していました。

分裂

1948年、「ダスラー兄弟商会」が分裂することによってプーマの歴史が始まります。1948年4月に袂を分かったダスラー兄弟製靴工場の資産は、工場をはじめ、設備、特許など兄弟間で細かく分割されてしまいます。販売部門の従業員の多くはルドルフに付いて行き、技術者の多くはアディのもとに残りました。ルドルフはアウラハ川の対岸にルドルフの Ru とダスラーの Da を合わせたルーダ (Ruda) という会社を作りました。

競技能力を高めるスパイクシューズ!

ルーダからプーマへ

兄ルドルフ・ダスラーは「RUDA」(ルーダ)を設立しました。これが現在のプーマです。このRUDAという名前の由来はわかるでしょうか?簡単です。ルドルフのル、ダスラーのダをくっつけたんです。adidasと発想は同じなんです。しかし、このRUDAという名前が気に入らなかったのでしょうか、翌年1949年には「プーマ」に社名変更しています。アドルフは社名に自身の愛称(Adi)と苗字の最初の3文字(Das)を合わせてアディダスという名前を付けました。

オリンピック

プーマといえばキング・カズ、というイメージを持っているくらい、サッカー色の強いメーカーだと一般に思われていますが、プーマの靴が有名になったのはオリンピックの陸上競技からだそうです。ヘルシンキオリンピック、ローマオリンピック、東京オリンピックと、プーマの靴を履いた陸上選手が金メダルを取り、プーマの名は一気に大きくなりました。

サッカーへ(1)

そのオリンピックで有名になったプーマはその後、サッカーワールドカップで多くのスター選手に愛用されます。サッカー選手達にとっては定番中の定番ブランドであり、ペレ、ヨハン・クライフ、ディエゴ・マラドーナ、ローター・マテウスなど、世界でもトップクラスのプレイヤー達も使用していました。日本においても、三浦知良をはじめとして、プーマのスパイク使用のトップ選手は多くいます。テレビコマーシャルにペレを起用していたこともあります。 又、日本専売モデルである、パラメヒコは中学生からプロの選手に至るまで愛用者が多く、1986年の発売以来、20数年たった現在でも、大幅なモデルチェンジ(新たなスタッドパターンを採用した派生モデルはある)する事なく多くの選手に選ばれています。アディダスのコパ・ムンディアルと同様に愛用者が引き続き同モデルを使用し続ける事が多くあります。

サッカーへ(2)

1966年エウゼビオ、1970年ペレ、1974年ヨハンクライフ、1978年アルゼンチンチーム…などなど、多くの選手が活躍しました。これにより現在の地位を獲得したのでした。サッカー商品に関しては世界的に「love=football」(ロゴではloveはハートマーク、footballはサッカーボールで表記)をキャッチコピーにしています。

陸上競技とプーマ

陸上競技において、男子マラソンのアベベ・ビキラが1964年の東京オリンピックの際に同社のシューズを着用しました。また、現在では男子100mの世界記録保持者のウサイン・ボルト等が同社のスパイクを着用しています。

モータースポーツとプーマ

モータースポーツ分野に正式に参入したのは1998年。プーマは2005年の契約以降、シューズやウェアなどすべてのユニフォームを提供しているF1のスクーデリア・フェラーリへのサポートを始め、多くのF1ドライバーがプーマのレーシングシューズを着用しています。2010年より日本でも正式に国際自動車連盟(FIA)公認モデルが発売開始されました。二輪界ではロードレース世界選手権(MotoGP)に参戦するドゥカティ・ファクトリーチームのサポートをしていて、DUCATI とのダブルネームを含む本格的なモーターサイクル・ブーツが販売されています。SUPER GTをはじめ、日本の各カテゴリーでも装着率が増えています。

コラボレーションとプーマ(1)

1998年のプーマとジル・サンダーによるコラボレーションがスポーツブランドとファッションデザイナーまたはブランドとのコラボレーション(共同開発)の先駆けとなったのがジル・サンダーとのコレクションです。現在では一般的となっていますが、コラボレーショは、2009年まで続きました。フセイン・チャラヤンは2008年にプーマのスポーツファッションコレクションのクリエイティブディレクターに就任しました。日本のシューズデザイナー三原康裕が手掛ける革靴ブランド・ミハラヤスヒロとのコラボレーションは、2000年に始まった当初は日本限定2000足という小さな規模でしたが、好評を受けて翌年から世界展開になりました。イギリスのファッションデザイナー・ニール・バレットは2005年にプーマの「96 HOURS」ラインのクリエィティブディレクターに就任しました。また、バレットはそのほかに自身のブランドとプーマのコラボレーションも行なっています。

野球!サッカー!陸上競技!ゴルフ!登山!大活躍!

コラボレーションとプーマ(2)

アレキサンダー・マックイーンとのコレクションは2006年に始まりました。2010年にデザイナーであるアレキサンダー・マックイーンが死去しましたが、プーマと同ブランドのコラボレーションはその後も継続しています。2004年にはインダストリアルデザイナーのフィリップ・スタルク、2008年にはイタリアのラグジュアリーシューズブランド・セルジオ・ロッシとのコレクションを発表しています。

プーマを代表するスニーカー、スウェード

スウェード/クライド/ステートは初期(1970年代後半から1980年代前半)のヒップホップにおいてBボーイ(ブレイクダンサー)たちから支持され、ニューヨーク・シティ・ブレイカーズやロック・ステディ・クルーといった著名なブレイクダンサーに履かれていました。また、グラフィティ・ライターのあいだでも愛用されていました。1968年に発売されたスエードアッパーのスニーカー・スウェード (Suede) および同モデルがベースとなったバスケットボール選手ウォルト・フレイジャー(愛称:クライド)のシグネイチャーモデルであるクライド (Clyde) は、プーマを代表するスニーカーというだけではなく、スニーカーの歴史の中でももっともポピュラーなもののひとつになりました。同シューズを太平洋の向こうから輸入していたヨーロッパではステート (State) の名前で知られます。スケーターにはクライドのレザーバージョンであるバスケット (Basket) が、その丈夫さから選ばれました。1980年代のイギリスではフットボール・カジュアルズやアシッドジャズのコミュニティのあいだでステートが流行しました。1994年にはビースティ・ボーイズがライヴでスウェードを履いていたことから再び注目を集めました。